議会広報広聴

戦後から1960年代までの地方議会と市民との関係

 戦後から1950年代にかけて、地方公共団体の長、議会議員の直接選挙(自治法93条の2)が定められるとともに、議決事項の追加(1948年)、議会の簡素化(1952年)など地方自治制度が創設・修正され、議会制度が整備された。
 
この時期の議会と住民との関係については以下のような記述がある。
  • 「選出母体と議員との間には、きわめて緊密な結びつきがあり、相互に信頼関係があった。したがって、自治体に対する不平不満なども議員を通じて首長に伝えて、議員の顔や腕で善処してもらう」(加藤,1971)
  • 「人間同士の関係が直接フェイス・ツー・フェイスの関係に依存し、相互に日常の共同生活を維持する同一の規範に服している」(辻,1976)
 これは、当時の議会が行政と住民とを結ぶパイプ役として存在し、住民との信頼関係を構築できていたことを示すものであり、学術的にも一定の評価を得ていたことがうかがえる。当時の市町村議会においては、その選挙区規模の小ささが議会と住民との直接的なコミュニケーションを可能にし、議会と住民との緊密な関係が実現していたのであろう。

 1960年代は、日本経済が躍進的発展をとげた結果として生じたひずみが公害問題や環境破壊を引き起こすとともに、都市への人口集中にともなう社会資本整備の遅れが露呈し生活環境が悪化した時期である。このような状況を背景にして、反公害や福祉政策・憲法擁護を訴える革新自治体が登場してきた。そこでは、行政と住民をつなぐ首長による広報広聴活動いわゆる「行政広報」の充実が図られた。

この行政広報に対する当時の地方議会の態度について以下のような記述がある。「議会としては、自分たちこそが制度的にいって住民世論の正統な代弁者たるべきであって、首長が住民の意向を知りたいのであれば、他ならぬ議会に問うべきであるという意識をもっている。そのため首長部局の行政広報活動のなかでも、特に公聴活動に対する反発が強く」(加藤,1971,p.90)、市長は陳情・誓願といった正式の住民要求ルートを尊重すべきであり、住民集会については議会を無視する越権行為と認識されていた」。(中村,1976,pp.269-270)。

これを読むと、1960年代の議員は、住民との密接な関係を背景にして、陳情・請願はもちろん、さまざまな住民の声を重視していたことがうかがえる。この時代、行政による広聴活動が不十分であったこともあり、議員こそが市民の代表であるという意識はとても強かったということであろう。

議員に伝えられた住民の声は、それがどのようなルートを通ってかはわからないが、政策の検討・実現されていたのであろう。当時は、どの自治体においても、この構図が一般的であったのであろうか。議員に伝えられた市民の声が、なんとなく実現されるということ、それを住民が感じていたのであろうか。議員の仕事は、市民の声を「伝え」、そして何らかの手段を使って長に実現させることであった。長も不十分な広聴活動のもとでは、議員の声≒市民の声という認識があったのであろう。
ところが、1960年代から革新首長が登場し、住民の声を直接聴き始めるなど広聴活動の拡充が図られたことから、議員の仕事が分かりづらくなった。当時の議会の反発は、自分達の最も大切だと考えている仕f事に大きな影響を与えるという危機感が背景にあったと考えられる。

(参考文献)

  • 加藤富子(1971)『行政広報管理』第一法規出版.
  • 辻清明(1976)『日本の地方自治』岩波書店.
  • 中村紀一(1976)「広報と広聴」辻清明編『行政学講座3行政の過程』東京大学出版会.

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